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おぎおんさぁ関連: 2010年1月

祇園祭(おぎおんさあ)は、平安時代の869年(貞観11年)に天下に疫病が流行った時、八坂神社の祭神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りとして卜部(うらべ)日良麻呂が勅を奉じ、6月7日に全国の国数に準じて鉾(ほこ)66本を立て、同月14日に洛中の男児が神輿を奉じて神泉苑に集まり、御霊会(ごりょうえ)を行ったのがその始まりであると言われています。

「御霊会」とは、政治的失脚などにより、志ならずに死んだ人々の霊(御霊)が天災や疫病をもたらすとして、その霊を鎮める祭事のことです。
また、970年(天禄元年)あるいは975年(天延3年)の6月14日に行われた御霊会から始まるという説もあります。
いずれにしろ、これらのことから、祇園祭の本質は、疫病祓いにあり、御霊会にあると言えます。

季節的にもこの祭りが行われる6月(現在では7月)は、梅雨から夏にかけての病気が流行りやすい季節であり、そのことへのお祓いとしての意味も大きいと考えます。そして、この時代から、この祭りが全国に広がって行きました。
このような中で、疫病を追い払うために、神を乗せる輿、つまり神輿をつくり、厄神を乗せてにぎやかにもてなし、送りだそうとして、神輿が生まれたとされています(『本朝世紀』)。このことは、神輿が街中を移動することで、神様が街中を旅をすることとなり、その過程で、悪霊を取り払い、街中が清らかになることを意味し、現代にも通じる大変貴重な意義ある行事だと考えます。

こうして、平安時代から続いた祇園祭でしたが、「応仁の乱」(1467~1477年)が起こると、京都の町全体に大きな打撃が与えられ、やむなく30年あまりにわたって中断されました。やっと、1500年(明応9年)に復興されたという歴史がありますが、京都の復興の象徴が町衆による祇園祭の復興でした。復興後の京都の経済復興はめざましく、巡行する鉾をかざる懸装品には中国や西方から舶載された虎皮や絨毯などの豪奢な品々が用いられたとのことです。
このようなことから、平和の時代への要請、商売繁盛への景気づけ、など民衆の願いが込められた祭りへの変貌が図られたという歴史もあります。その中で、特に祭りを支えてきたのが町衆の中の商工業者です。

1768年(明和5年)の鹿児島の八坂神社に関する資料によると、「商榮講」なる組織がこの祇園祭の全ての費用を捻出していたことが窺えます。「商榮講」は現在の商店会、商工会にあたるものであり、鹿児島においても商工会議所が中心になっていることは妥当なことだと考えます
祇園祭(おぎおんさあ)において、一番の華となっているものが、神輿です。
実は、京都の祇園祭のハイライトは今も昔も山鉾巡行ですが、残念ながら鹿児島は、沖縄や東北、北海道地域と同様、山鉾のない祇園祭となっているという特徴があります。その山鉾の代わりにメインとなっているものが神輿であり、祇園祭(おぎおんさあ)になくてはならないものとして定着しています。

その中で、私たち鹿児島青年会議所が深く関与している壱番神輿は、その昔中町近辺の沖仲仕などが担いでいたものを、自衛隊員や消防局員などが替わって担いでいましたが、1トンという巨体ゆえに、その負担は大きく、ついに13年間は岩崎産業の倉庫(現在は、「太平洋ビール館」)に眠っていたという時期がありました。重たくて、誰も近寄らなかったそうです。

しかし、昭和59年に故春田陽三先輩にけしかけられた鹿児島青年会議所の先輩たちが鹿児島の元気なまちづくりの象徴としたい、として一致団結して心一つに締込(褌)姿で壱番神輿を担いだとのことです。
今でもその時の興奮が忘れられず、生涯の思い出となっているとのシニアの先輩たちの熱い思いが私たちには寄せられました。壱番神輿の復活で、「鹿児島のまちが、大きく燃えた」と先輩たちは思い出を語ってくださいました。

ソイヤ!ソイヤ!という、お神輿を担ぐときの掛け声。

意味というか、神輿を担ぐ上での心構えのような意味があります。

当て字でしょうが、漢字で 素意成。「ソ→素。イ→意。ヤ→成」

「素直な心持って、成りとする。」という言い伝えがあるようです。

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